歴史的に完結した事象であるナチスドイツの犯罪は特段の政治的配慮なしに取り上げられる稀少な主題である。近年ナチス関連の映画が次々と製作公開される理由の一つにその企画の容易さがあるのではないか。ホロコーストについて意匠を凝らした物語を作り上げ、そこで描かれるナチスには人間らしさの配慮なしに絶対的な悪役として描くことが可能だ。こうしたフィクションの作り手たちは、ときにナチス当時の実体験に依拠することなく奇想天外な物語を編み出し、史実に照らせばあまりに荒唐無稽な設定であっても感動作と評価されることになる。強制収容所のサバイバルをゲームに過ぎないと幼い息子をだまし続けた父親を描く『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997)や、強制収容所の少年とナチス将校の息子がフェンス越しに親しくなる『縞模様のパジャマの少年』(2008)など、ホロコーストの過酷すぎるリアリティを伝えることはもはや二の次になったのかと思える作品たちだ。 だがホロコーストを寓話的に扱う傾向は戦後間もない時代から存在していた。ドイツではユーレク・ベッカーの小説「嘘つきヤーコプ」(1969)が典型例である。ベッカーはナチ時代生まれのユダヤ人であり、幼い時にユダヤ人ゲットーに収容された過去を持つ。その彼が戦後東ドイツで発表した本作は、ゲットーで絶望の中に生きるユダヤ人仲間を元気づけるために所持禁止のラジオを持っていると偽って人々に偽ニュースを伝え続けたユダヤ人ヤーコブの物語だ。これは実話ではない上に、ベッカー自身ゲットーで過ごした時期の記憶が全くなかったため完全に創作された物語である。そこにある教訓とは逆境の中で一縷の希望にすがる人間の姿を皮肉に示すことだろう。人間は信じたいものをたやすく信じてしまい、結局手遅れとなる。本作は1974年に東ドイツで映画化され *1 米国のアカデミー賞®外国語映画賞候補にノミネートされた唯一の東ドイツ映画となった。また1999年には『聖なる嘘つき、その名はジェイコブ』としてロビン・ウィリアムズ主演により再映画化されているが、こうしたナチスやホロコーストを題材にするフィクション作品は残酷な現実をそのまま伝える作品とはならず、観客に対して人道的な救いの可能性を与えるものが通常である。 だがホロコーストのような想像を絶する大量虐殺の現実を前にして、人々が「優しい」フィクションに傾倒する
映画『ファイナル アカウント 第三帝国最後の証言』公式
8月5日(金)より全国順次ロードショー